希望のない世界から

消化試合を生きる

「嫌いなものは排除する」という考えは、二次創作にはそぐわない

前にも同じことを書いたかもしれない。何度も書いているかもしれない。それでも、書かなくてはと思う。

二次創作というのは、多く場合、権利者(公式)に黙認されて成り立っているグレーゾーンの活動である。

時々公式に、「○○してもいいですか?」と問い合わせる人がいるが、公式としては問い合わせをされたら「ダメです」としか言えないケースも多い。

そういう世界であるという認識を、まず持ってほしい。

 

先日、とあるジャンルの二次創作において、それを気に入らない個人がやめるようクレームを入れた。

二次創作というのは、その人その人によって様々な解釈があり、たくさんの表現がある。自分の好きなものもあれば、当然自分が嫌いなものもあるだろう。

自分が好きなものを嫌いな人もいるだろうし、自分が嫌いなものを好きな人もいる。

嫌いなものは認めつつも遠ざけて、好きなものにだけ触れていれば良い。二次創作とはそういうもののはずだ。

 

ところが最近、どうも「自分の嫌いなものは潰す」という風潮が強い。

自治厨という言葉が今でも使われているかはわからないが、そういうものに近いかもしれない。その行動原理は「自分が嫌いだから」でしかなく、それを好きな人たちのことなど考えていない。

たまに親が「子供に悪影響だから」と言って、ゾーニングもされているアダルトコンテンツを潰しにかかることがあるが、あれも「自分が嫌いなものを子供を使って潰そうとしているだけ」と批判されている。

それに近い。

 

それがNGかどうかを判断できるのは公式だけである。

どうしても気に入らないのなら公式に問い合わせればよいが、公式としては恐らく、二次創作という枠の中で、これはダメだがこれは良いという線引きなど出来ないだろう。

ひょっとすると、自分が好きな表現も含めて、全面的に禁止になるかもしれない。それを望むのか?

自分が嫌いな表現も、その人なりの愛であり、楽しんでいる人もいる。

そして、自分が好きな表現を苦手な人だっているだろう。

互いに尊重し合い、適度な距離を置きつつ、協調して作り上げていくのが二次創作の文化である。

 

響け!ユーフォニアム』の二次創作で、久美子と麗奈の小説(くみれい小説)を書いている。

Pixivで「高坂麗奈」タグで一番最初に小説を書いたのが自分であり、恐らく日本中で一番最初にくみれい小説を世に発表した。

今日現在、閲覧数8,700、総合点1,800点になっているが、幸いにも「くみれいとか意味不明なジャンルはやめてください。公式も久美子は秀一とくっつきます。不快なので消してください」というような感想はもらっていない。

もちろん逆に、自分は久美子と秀一のカップリングは受け付けないが、それを書いている人に「やめてくれ」などと言ったことはない。

マンガやイラストでも苦手なジャンルはたくさんある。NTR、欠損、グロ、ふたなりなど、受け付けない表現もたくさんあるが、例えばTwitterのTLにそれが流れてきたとしても、ミュートやブロックをするだけで、文句を言いに行ったりはしない。

小日向美穂を愛しているが、たとえ小日向の四肢切断&アへ顔の触手貫通イラストが流れてきたとしても、それはそれで一つの表現だと思う。静かにブロックして終わりだ。

 

自分が嫌いなものは排除する。

元作品の生みの親なら話は別だが、二次創作界隈の同じ立場の人間同士でするべきことではない。

あまり持論を一般化して言い切りたくはないが、20年近く二次創作をしている人間として、批判を覚悟で書いてみた。