30代独身オタの哀愁

消化試合を生きる

幸せな日々の過ごし方と、2016年の考え方の指針

幸せな日々の過ごし方、なんてタイトルをつけたが、自分が今幸せな日々を過ごしていないので、どうしたものかなぁというお話。

自分と同年代で幸せそうな生活をしている人の圧倒的大多数は、結婚して子供がいる。

それが幸せそうに見える憧れ補正もあるかもしれない。

しかし、自分は非モテなので、そういうのはできない。できないものを、できると信じて頑張る先に、幸せはない。

身の丈を知り、等身大の幸せを探さなければいけない。理想の幸せ像を変えない限り、自分が幸せな日々を過ごすことは有り得ない。

 

インターネットで「豊かな暮らし」などで検索すると、すぐにお金の話になる。

しかもどちらかというと、お金を使わない幸せについてだ。

別にお金は使ってもいい。逆にこの歳で独身で非モテで彼女もいないような生活をしていると、自由に使えるお金はそれなりにある。

ただ、確実に物では満たされなくなってきた。

もちろん、個人差はあると思うが、単純に物が増えること、お金を使うことに喜びを感じる人は少ないのではないだろうか。

車をいじるのが好きで、どんどんお金を使う人も、車をいじるのにお金がかかるだけで、お金をかけるために車をいじっているわけではないだろう。

 

やはり、趣味だろうか。

最近思うのだが、自分は趣味を一人でやっていて楽しいのだろうか。

相変わらずソーシャルゲームをやり続けているが、周囲で他に誰もやっていなければ、たぶんやっていない。

趣味とはつまり、コミュニケーションツールなのではないか、と思うことが増えてきた。

例えば一人で美味しいものを食べに行くと、それをSNSに書く。それは、その行為を元にして、誰かと話したいのだ。

昔は一人で何日も旅行して、特にそれについて誰とも話さなくても平気だったのに、最近は誰かと旅行する方が楽しいと思い始めている。

つまるところ、寂しいのだろう。

 

自分にとっての幸せな日々の過ごし方は、趣味の仲間と好きな話題でわいわいやることだ。

しかしこれは、冒頭の「結婚して子供がいて家族円満」と同じくらい、自分にはできないことなのだ。

要するに、冒頭の理想像を切り捨てたのと同様に、できる範囲での幸せな日々を過ごすことを考えると、これも切り捨てなくてはならない。

これを「妥協」という。

妥協できる範囲と、幸せに感じる範囲と、自分にできる範囲。これらすべてを満たす何かを探さなくてはならない。

 

答えのある話ではないのだが、ある程度2016年の過ごし方の指針を決めたいと思う。

先日、久しぶりにコスプレ撮影をしてきた。最近色々あってこの趣味は縮小しているのだが、この日はとても楽しかった。

楽しかったのだが、次があるかはわからない。元々他のカメラマンが男装撮影を嫌がって、その代理での依頼だった。

自分は別に男装撮影でも大歓迎なのだが、スキルやその他の問題により、依頼されることは滅多にない。

だから、次の依頼があるかはわからないし、ない可能性の方が高い。

まずはこの、「次」を考えてしまう思考を変えて行こうと考えている。

その日が楽しかったならそれで良しとし、常に一期一会、一度きりの「楽しいこと」を続けていってはどうだろう。

刹那的で行き詰りそうな気はするが、すぐに次回や継続性を考えてしまい、暗くなるのは、自分の悪いところだろう。

 

その都度その都度、やりたいと思ったことをやって、楽しかったら良しとする。

 

2016年はこれで行こうかな。

ソーシャルゲームなんかも、ずーっとやっていると何かものすごく無駄な時間を過ごしている気分になる。

しかし、やっているその瞬間は確かに楽しいのだ。その意味や、先のことを考えるから、無駄に感じてしまう。

子供や彼女がいるでもないこの人生は、もはや自分のためにしか存在しない壮大な暇つぶしである。

非モテには非モテの、身の丈に合った幸せを探して行きたい。