希望のない世界から

消化試合を生きる

必要とすること。必要とされること。

先日、初めてスタジオ撮影というものを経験してきた。

とある和風スタジオで、東方コスのレイヤーさんを撮影してきた。

照明機材をはじめ、ほとんどすべてが初体験で、とても面白かった。

レイヤーさんにも色々教えていただき、とても勉強になった。

充実した一日だった。

 

自分はカメラはだいぶ前から好きだが、人を撮ることはまったくなかった。

今回の撮影のために、ストロボの使い方や、オーソドックスな照明の当て方を、一から調べた。

それくらい素人であり、当然綺麗な写真を撮ることもできない。

そんな自分に写真を撮らせてくれる唯一の人が、例の片想い相手だった。

旅行に行ったりコスプレをしては、写真を撮らせてもらっていた。

 

文字通り、撮りたい自分が一方的に撮らせてもらっているだけだった。

具体的に撮ってほしいと言われたこともなければ、撮った写真もほとんど要求されない。

アーカイブの仕様上、写真と撮影者をリンクしてくれるとありがたいのだが、リンクどころか公開もされない。

けれどまあそれは、写真自体がその程度のレベルだし、頼まれて撮ったものではないから仕方ない。

自分が精進しない限り、喜んでもらえることはないだろう。

 

ところが、先日のスタジオ撮影で、レイヤーさんに感謝をされた。

写真も喜んでいただけたし、アーカイブにも是非載せたいと言っていただけた。

もちろん、半分は社交辞令だと思うが、そういうことを言われたことがないので嬉しかった。

次の撮影の約束は決まっているし、来年以降も撮らせていただけそうな話だった。

それとは別に、そのレイヤーさんのお友達から、是非撮ってほしいというお話をいただいた。

誰かから撮ってほしいと言われたのは初めてのことで、ありがたく頂戴して現在話を進めている。

 

前にも書いたかもしれないが、片想い相手は彼氏がカメラを始めようとしているらしい。

また、自分で一眼レフを買って、友達同士で撮りたいとも言っていた。

モデルのアルバイトで、お金をもらって撮影してもらう話もあったらしい。

それとは別に、プロのカメラマンと知り合って、その人との撮影の話も進めているそうだ。

そういう話を、嬉々として自分にしてくれる。

 

昔、片想い相手に、自分としたいことは何かと聞いたら、「写真を撮ってほしいかなぁ」と言っていた。

だから、せめてそれだけが、片想い相手を喜ばせられる武器だと思っていた。

ここまで読んで、そう思えた人は少ないだろう。書いている自分もそうである。

どう考えても、撮影者としても自分は必要とされていない。

彼氏が運転免許を取得して、カメラも買ったら、完全に自分の居場所はゼロになる。

 

今回、こんな自分を、少しでも必要としてくれる人が存在するとわかった。

自分の撮った写真でも喜んでくれる人がいるとわかった。

もちろん、好きだから撮りたい。写真がほしい。使ってもらえなくても、喜んでもらえなくても構わない。

そういう思いも事実だが、いよいよこの領域にまで彼氏が出てきたのなら、完全に引き際だと感じる。

自分の撮りたい人にではなく、自分に撮ってほしい人のために頑張る方が、満たされるかもしれない。

 

以上、近況。

 

人間関係は変わっていく。

大学時代の友人もほとんど絡みがなくなったし、mixi時代の仲間は皆無に等しい。

今はTwitter経由の人が多いが、この状況は、もちろんTwitterの無い時代には考えられなかった。

片想い相手とも、こうして少しずつ距離ができて、やがては思い出になっていくのだろう。

他の多くの友人と同じように。